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【所長日記】練馬に「19世紀の教育革新者ペスタロッチ」の思想を取り入れた学校があった!

みどりのまちづくりセンター所長小場瀬令二 みどりのまちづくりセンター所長 小場瀬令二 2017.7.5

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「ペスタロッチ(1746年~1827年)」(ウィキペディアより)

<ペスタロッチって、誰だ?>
 私は教育学部出身でなかったせいか「ペスタロッチ」なる人物の名前を聞いたのは初めてである。教育学部関係者ならば、必ず知っていなければいけない有名人らしい。スイスの子供教育改革に一生を捧げ、今日の教育方法論に多大なる影響を与えた人物である。何しろ肖像画が以前のスイスの紙幣の図案に取り入れられているくらいである(スイスの紙幣参照)。ペスタロッチの教育方法論は、単に暗記を押し付ける教育ではなくて、人間の自主性を尊重し、直感を大切にし、自然の中での教育や実物を重視する教育である。21世紀を生きている我々にとっても、必ずしも彼が提唱した教育を出来ていないということでは、耳の痛い話でもある。このペスタロッチの教育論は、スイスを初め、英国や、ドイツのプロシャ、さらにはアメリカでも普及していった。そのアメリカでは、近代的な公教育制度に採り入れられ、「オスウィーゴー運動」として普及していった(オスウィーゴとは学校の名前)。

<明治時代、日本に導入された!>
 明治時期、文部省から派遣された「高嶺 秀夫」がこの教育法を日本に輸入し「東京師範学校(後の高等師範学校→教育大→筑波大)」などを創設して新しい教育方法の普及に努めた。また、大正デモクラシー時代、世の中の自由な雰囲気の中、日本でも児童や学生の主体性を尊重する教育、全人的な教育、自然を取り入れた教育が提唱され、成城小学校(澤柳政太郎)、玉川学園 (小原國芳)、自由学園 (羽仁もと子・羽仁吉一)、興亜工業大学=現在の千葉工業大学(東久邇宮稔彦王・永野修身・小原國芳)などが続々と開校した(大正自由教育運動)。その一環で、大正14年[1920年]に練馬の旭町にペスタロッチの教育を基本方針とした「花岡学院」が開設された。創立者の花岡和雄は東京神田区の開業医で、隣の旧「兎月園」を開設した花岡知爾氏の兄にあたる(兎月園については、みどりのまちづくりセンター発行の「こもれび62号」を参照ください)。この学院は裕福な家庭の子女が通う学校もあり、養護学校的な意味合いも持っていたようだ。この時代は関東大震災後で人口が郊外に流出し、都市の郊外化が進んだ時代でもあった。
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ペスタロッチの肖像を描いたスイスの旧20フラン紙幣 (ウィキペディアより)

<現場に行ってみる>
 東武東上線成増駅から南に約800m歩くと不思議な入口がある。そこに入っていくと、光が丘公園の西側の入口である「はんの木緑地」に踏み込んでいく。その緑地を中心に周辺の住宅地を含めた約12,000坪の山野に花岡学院があった(花岡学院草木絵図の敷地見取り図を参照ください)。
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 当時は、敷地東端の正門を入ると、松を初め雑木林が生い茂る、「ささやきの小径」(写真⑨)に入り、さらに進むと「ささやきの小路」を通り抜け、急に視界が広がり(写真④)、睡蓮の花咲く小さな池がある(サギの池=写真③の「緑の教室」の先に見える)。池からの小川に沿って歩くと、右手に大きなすべり台のある「スタコラ山」(写真④の左側)、敷地見取り図の左手の高台に本館校舎があり(写真⑤,⑥)、「そり坂」で上っていけるようになっていた。その先に広い運動場があった。その側に池からの湧き水を利用した25mのプール、天井ガラス張りの雨天体操場(日光浴室)、さらに道路を隔てて木造2階建ての寄宿舎があった(写真⑧)。写真⑧に見える寄宿舎は、随分洒落た建物である。また、本館の教室は、大変モダンで集中暖房を備えたスレート葺き平屋建の洋館建築であった(写真①本館平面図と図版②,③参照)。写真⑤を見ると卒業式の記念写真で、本館平面図(写真①)、本館立面図(写真②)、本館の見取り図(図版③)と照合すると、本館の外観が想像される。つまり、窓と扉が交互について、部屋から外に直接出られるようになっていたようである。自然の中での教育を重視したデザインだったのかもしれない。健康に十分留意しながら、勉強も出来るという日本最初の私立の林間学校でもあった。
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 当時麻布にあった東洋英和女学院が林間学校に来たりしていた(当時は戦争中と言うことで、名前は「東洋永和」という校名にさせられていた。史料室だよりNo9 東洋英和女学院史料室委員会 1980年7月14日参照 = http://www.toyoeiwa.ac.jp/archives/publications/pdf/shiryo9.pdf)。

<学院の閉校>
 太平洋戦争が激しくなると、兎月園同様に学院の経営は厳しくなり、昭和17年[1942年]に閉校に追い込まれる(図版④は閉鎖される前の地形図である)。また隣に成増飛行場が同時に整備され始めている(昭和19年の図版⑤の地形図ではまだ花岡学院の名称が残っている)。敷地は神田区に寄付され、神田区の学園として再開校の運びとなる(=武蔵野健児学園)。ただ日本が戦争に負けると、成増飛行場はさっそく米軍に接収されてしまう。また、花岡学院だった敷地が接収される直前の昭和21年の地図を見ると(図版⑥)、本館や寄宿舎、日光浴館、鴨池などが読み取れるが、昭和22年[1947年]の接収後の地図(図版⑦)では、日光浴館だけが残存しており、周辺はすでに住宅地開発が始まり、グラントハイツも多少整備され始めている。
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そして、グラントハイツの整備完成に伴い、学院敷地の敷地は昭和24年[1949年]になって完全に接収され、グラントハイツの排水の浄化施設の敷地とし利用されてしまう。このため学院の跡かたは殆ど無くなってしまった。その後、この浄化施設は、臭気やハエの大量発生などの問題を起こし、周辺居住者にはご苦労があったようである。

<緑の傾斜地が残った>
 そして、グラントハイツが昭和48年[1973年]に全面返還され、昭和58年[1983年]に光が丘公園として整備されるとともに、花岡学院の敷地は「はんの木緑地」として美しく整備されている。(案内板と現地写真参照)
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はんの木緑地の現在。緑濃く、谷の地形がよく分かる。

 また、光が丘にグラントハイツがあった時代、浄化施設があった関係で、処理水が白子川に流れ込んでいた。現地に行ってみると、現在も白子川にその排水路の跡が、封鎖されて残っている(スケッチ、なお、水路跡を研究されている方々の成果を参考にさせていただいた)。
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参考文献
*「思い出の花岡学院」吉村泰代編集 メドールの会 2006年・・・写真の許諾を快くいただいた
*「史料室だよりNo9」東洋英和女学院史料室委員会 1980年7月14日・・・思わぬ関わりにビックリ
 (http://www.toyoeiwa.ac.jp/archives/publications/pdf/shiryo9.pdf
*光が丘昭和時代の地図帳 山之内光治 平成20年・・・花岡学院についての克明な資料がある
*白子川周辺の水路式群白子川周辺の水路敷群(小源治橋〜あけぼの橋)
 (http://natrium.la.coocan.jp/canal_lot/shirakogawa/shirako02/index.html
*地図見て気になる箇所に行ってきた~白子川:グラントハイツの下水排水孔?(川の出っ張り)
 (水徒然:http://yatolove.exblog.jp/17860940/

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