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      ―金肥が新田開発を可能とする?!―

【所長日記】白子川、南大泉で消えて地下水堆とシマッポとなって現る
      ―金肥が新田開発を可能とする?!―

みどりのまちづくりセンター所長小場瀬令二 みどりのまちづくりセンター所長 小場瀬令二 2018.2.20

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<地形図に○○新田の字を発見>
 今回、地域情報誌「こもれび」で、南大泉について特集をした。資料として集めた明治時代の地形図を見ると、この地域には、「○○新田」という地名が多いことに気がついた(地形図参照=今昔マップ)。一体いつ、この新田開発が行われたのか、色々文献を調べてみた。江戸時代は新田開発の時代だと言われている。有名なのは何と言っても、徳川吉宗の時代(江戸中期以降=1716年~)、享保の改革の一環としての『武蔵野の新田開発』である。しかし、この武蔵野新田開発には、南大泉(当時、小榑村)関係の地名は見当たらない。それから想像するに、南大泉の新田開発は、江戸の中期以前に開発された新田が主だったのかもしれないが、残念ながら分からないままである。現在、比較的大きな畑が残っている個所を見てみると、概ね、以前の新田開発に関連した地名の場所と一致する。

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<なぜ武蔵野で新田開発がされたか>
 武蔵野の地は、関東ローム層に覆われて、保水力がないために、農業には適さない土地であった。このために荒地が広がり、鷹狩の地であったと小学校の社会科で習った。しかし吉宗の時代になると、何故にこの荒地を大規模に新田開発することが可能になったのだろうか?

 江戸時代の農家は、これらの荒地を入会地(いりあいち=村の共用地)として、肥料や堆肥にするための落ち葉など集める場所としていた。従って、荒地といっても、農業を持続していくためには必要不可欠な土地だったと言う訳である。ですから、田畑が必要だからと言って、荒地をどんどん開発してよいというものでなかった。特に、玉川上水が武蔵野を潤すと(1653年以降)、新田開発ブームが起こったと考えられるが、幕府は、簡単には新田開発を認めた訳ではない(=当時の武蔵野は幕府が開発許可権限を握っていた)。つまり、もともとの農地への肥料や堆肥確保のために、荒地をそれなりに存続させる政策を取っていたのだ(案外、幕府はエコロジーが分かっていた)。そのような中で、江戸時代の中期以降になると、肥料確保のために金を出して購入することが普及し始めた。人糞や魚の搾りかす(干鰯=いわしの干した物、鰊粕=ニシンの油搾りかす)、植物の油粕を肥料として購入するようになった。これらを、金肥(=キンピとかカネゴエ)という。
 この金肥を使うことにより、落ち葉などの肥料や堆肥を使うのを減らすことが出来るようになったのだ。ただ、金肥を購入するには、お金が必要で、小作農家は肥料や堆肥をお金で購入できずに、没落するということも起こった。大規模な新田開発が可能になったのが、購入肥料(現代の購入肥料である化学肥料とも一脈通じている)の利用だったというのは何とも興味深い。
 また、玉川上水は本来江戸市中の上水道のためにひかれたインフラであり、簡単に分水して農業に利用できる訳ではなかった。玉川上水が完成して、野火止用水はすぐに整備されたが、他の分水は40年ぐらい経過して認められるようになった(練馬に関わりの深い千川上水も43年後に認められている。しかし、即水田が整備できるほどは水量は貰えず、生活用水や畑用の水としての利用に限られていた。

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人糞も立派な金肥で、購入するにはお金が掛った。(滑稽臍栗毛 より)

<新田開発で財政再建をするつもりだったが>
 この大規模な武蔵野新田開発には、時代劇のヒーローの大岡越前守忠相なども能吏として登場して大活躍する(ただし、我々の知っている大岡政談は必ずしも史実ばかりではないようだ)。ただし、この施策には、幕府の財政改革という大目的があったのだが、可笑しいのは、新田開発を一生懸命やって、お米がたくさん収穫されようになったら、お米が余ってしまい、米価が下落して、幕府の財政再建は遅々と進まなかった(財政再建はいつの時代も頭の痛い問題だ)。そこで幕府は、諸大名に「買米令」、産地に「置米令=生産地に米を備えておく」、「廻米制限令=江戸・大坂・京都に米を送り込むのを制限」などを出して、米価の下落を何とか抑えようとした。他方、享保の改革のもう一つの眼目は「諸物価の引き下げ」であった。「お米の値段は上げて」、「他の物価は下げる」というのは、「米将軍」と言われた吉宗の力をもってしても中々難しく、経済は、まさしく「水物」だったのである。

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左:米将軍と言われた徳川吉宗(徳川記念記念蔵)
右:武蔵野新田開発の責任者の大岡忠相像(国立国会図書館蔵)

<新田開発の資金提供者>
 またこの新田開発には、資金が必要で、何軒かの有力農家が請け負う「請負新田」の他に、経済力のある町人が出資して開発を請け負う「町人請負新田」(後に不在地主を大量に産むことになった)や、村全体で新田開発を請け負う「村請負新田」、旗本や代官などが新田開発を段取りし、町人や農民に請け負わせる「代官見立て新田(=今風に言えば、公共が立案して、民間が資金や労働力を出して施工した新田開発)」などもあった。
 また、新田のガバナンスで、新しい農民が来て、新しい村をつくる「村立新田」と、新田には村は出来ず、親村から農民が通いで耕作する「持ち添え新田」がある。

<地下水堆(チカスイタイ)とシマッポて、なあに>
 南大泉で興味深いのは、「溜水」という字(あざ)があったことである(今昔マップ参照)。白子川は井頭公園当たりを源流とするが、その上流は新川と言って、大水があると出現し、そうでない時は川ではなかったようである。新川の上流である下保谷地区には幾つかの窪地がある。大水が出ると、そのような窪地に水が湧き出る。このような場所を地下水堆と呼ぶ。この窪地の下には不透水帯があり、地下水が地上近くにあり、大雨が降るとその地下水がゆっくり湧いてくるのだ(断面図参照)。さらに大水になるとそれらの窪地どうしを結ぶ流れが出来て、水が下流に流れていった。その溝を「シマッポ」と言っていた。いうなれば、近代以前の平地での「自然遊水池治水」といえるだろう。これらに関しては吉村信吉氏の長年のご研究がある。この研究では、もっぱら下保谷を対象地域にしているが、南大泉地域にも「水溜」という字があることから、ここも地下水堆であり、昔は「シマッポ」が農地の中にあったのではないだろうか(私の想像だが)。

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吉村信吉氏が昭和18年(1943年)に撮影した下保谷窪地のこの景色はすっかり失われているが、明治29年(1896年)と現代の地図を比較すると興味深い。写真の場所は現在も白子南公園はあり、古い地図では、その横を白子川の支流(大泉堀と言われた)が流れている地図表記がされている。その流は現在、蓋がかけられている。写真の向こうに写っているのは北荒屋敷集落とそれに連なる練馬区側の荒井集落の屋敷林だと思われる。昭和22年(1947年)の航空写真を見ると、大泉堀はまだシマッポのままだが、昭和38年(1963年)の航空写真を見ると、コンクリートで両岸が出来て、その間をコンクリートの梁が渡されていたことが読み取れる。また、北荒屋敷集落の巨木も読み取ることが出来る。

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東京市西郊保谷村上宿付近の地下水堆と集落、浅い窪地/吉村信吉/地理 第3巻第1号pp82-95 より

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※参考文献
近世の新田村/木村礎/吉川弘文館
武蔵野歴史地理第9冊/有峰堂
大岡越前守と武蔵野新田の開発/(財)東京都歴史文化財団/江戸東京たてもの園
日本文化の歴史8巻/小学館

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