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【所長日記】戦争と平和:光が丘から歴史を巡らす2

練馬まちづくりセンター所長小場瀬令二 練馬まちづくりセンター所長 小場瀬令二 2013.7.10

さかのぼり日本史

学校での歴史の勉強は、縄文土器から始まって近代まで時代順に学習していく。それを逆転したのが、NHKテレビで放送していた「さかのぼり日本史」である。ある時点の状況を深く理解するために、その時点から過去にむしろ遡っていく方法で、歴史的事実を編集していている。そこで「光が丘」という空間の歴史も、順次さかのぼって考察してみたい。前回のブログ「光が丘から歴史を巡らす1 グラント・ハイツ」に引き続き第二弾である。

光が丘をさかのぼる

「光が丘」を遡るというと、ちょっと「あゆ」や「鮭」の遡上のようであるが、今回も歴史を紐解いてみたい。「光が丘」は1977年から公園と団地の整備が開始されたが、それ前の1974年に全面返還が日米合同委員会の間で合意された。この広大な土地が返還されただけでも、大変練馬区にとっては幸運だったと言わなければならないだろう。何しろ1952年の日米政府間協定上、「グラント・ハイツ」は米軍無期限使用施設に指定されていたのだ。この広大な土地が返還されたのも、返還運動と関係者の尽力の賜物である。返還が決まると早速跡地計画が立案された。全体の約半分が都市公園、残りが住宅地とそれに関連する施設地という土地利用計画になっている。この計画に従って練馬区は豊かな都市空間を確保できることになったことも幸運だったと言える。他の米軍接収地で返還されたものを見ると、「グラント・ハイツ」は広さの面でも立川基地、調布飛行場に次いで広く、かつ返還後の土地利用は広く区民に開放されている。

グラント・ハイツの敷地にはその前成増飛行場があった

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1947年(昭和22年)グラント・ハイツの航空写真
(練馬区 ねりまっぷより)

1945年8月15日に日本が太平洋戦争に負けると、早速成増飛行場は米軍に接収され、3年後には将校の住宅地として、「グラント・ハイツ」が整備されることになる(参照:完成間際のグラント・ハイツの航空写真)。この「グラント・ハイツ」の景観は、いかにもアメリカの住宅地という感じで、住宅は平屋、塀などはなく、庭はもっぱら芝生で覆われている。では、その地になぜ成増飛行場が建設されていたのだろうか。

ドゥーリットル空襲は帝国日本にとって衝撃的だった

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空母から発艦するドゥーリットル隊所属のB25

太平洋戦争というと、米軍のB29による1944年6月以降の本土空襲が、日本人にとっては辛い事実として記憶されているが、その前に思いもかけない、ちょっとした本土空襲が米軍によって行われていた。
1941年12月8日に、日本は日中戦争の打開のために、米国と開戦したのである。ハワイの真珠湾攻撃である。それに合わせてフィリピン、シンガポール、オランダ領東インド諸島(=インドネシア)等を次々に占領し、「向かうところ敵無し」の勢いで爆竹の進撃だった。しかし、翌年の6月5日にはご存知のように、ミッドウェー海戦で、なけなしの航空母艦4隻と艦載機、搭乗員を大量に失い、制海権、制空権を保持できないまま、敗戦への奈落に落ちていくことになる。つまり、日本が「向かうところ敵無し」と脳天気に思えていたのは、半年だけだったのである。しかし、日本が無条件降伏を受け入れるまで、この後3年余り日本にとっては厳しい戦闘が継続されることになった。
このミッドウェー海戦は、日本帝国海軍がミッドウェー島を攻撃しようと企画したものである。この島の攻撃は真珠湾攻撃の後、直ぐに企画研究された。そして、真珠湾攻撃の後約4か月後、ミッドウェー海戦の約2ヶ月前の4月18日に、米国のドゥーリットル中佐率いるB-25爆撃機による本土空襲であった。このような本土空襲を防ぐためには、この島を攻撃するなり、米国の航空母艦を撃破しなければならないと、ミッドウェー島攻撃の決意を日本側として最終的に固めるに至ったのだ。

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関連する太平洋の戦場の位置
(タイムス・アトラス編第2次世界大戦歴史地図より加工)

ドゥーリットル爆撃隊は、本土から1000Km離れた太平洋上の米国航空母艦「ホーネット」から発進した(地図参照)。爆撃は白昼で、東京、横浜、川崎、横須賀、名古屋、神戸などに少量の爆弾を投下したが、被害は軽微であった。白昼の爆撃になったのは、日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」によって、米国航空母艦「ホーネット」が発見されてしまったため、予定より早くB25 は発艦することになった。この後米国航空母艦「ホーネット」は、日本側からの攻撃を避けるために直ちに引き返した。このため日本本土を爆撃の後、爆撃機は航空母艦に帰艦せずに、殆どは中国本土に着陸している。この米国による空襲は、白昼堂々と出し抜けであったが、本土防衛態勢の弱体が明らかになり、日本軍首脳に大きな衝撃を与えた。このことがきっかけとなり、帝都防衛のために、軍事飛行場や高射砲陣地の整備を急ぐこととなった。その一つが、成増飛行場の整備となるわけである。なおこの米国航空母艦「ホーネット」は、ミッドウェー海戦にも参加したが、1942年の南太平洋海戦で撃沈されている。

即断即決

空襲のあった2日後には、「独立飛行第47中隊」を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせることとし、この目的にかなう飛行場として、成増飛行場を建設することになった。(すごい即断即決だが、地主の農家の方にとっては寝耳に水だったろう。)空襲後1年の間で測量・調査・計画した後、2か月で農民を立ち退かせ、4か月で完成させたのが成増飛行場である。しかし、この地に飛行場を建設することになったのは、多少前史がある。内務省が、この地に大泉防空緑地を計画していた。ところが、最終的には内務省告示から大泉防空緑地は除かれている。このことが成増飛行場の敷地選定に関係してそうであるが、私にもこの点はよくわからない。また防空緑地については、別の機会にコメントしたい。
かくして成増飛行場が整備されることになったが、主要な滑走路は南北に伸びている。これが、現在の「光が丘団地」から「光が丘公園」を貫いているプロムナードになった。他方、光が丘公園の北の部分から東方向にも敷地が伸びて、現在の板橋区赤塚新町の赤塚新町小学校やUR光が丘パークタウン団地の方にも敷地が確保されていた。ここには、横風用の滑走路を整備する予定で土地を確保していたが、結局、横風用の滑走路は整備されずじまいで、終戦になってしまった。

成増飛行場からB29 に特攻をしていた

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出撃態勢の「鍾馗」
(板橋区における戦災の状況(東京都)より

即断即決で整備された成増飛行場は、その役割を果たしたのだろうか?
1942年4月に、米国による奇襲的な本土空襲があったが、本格的な本土空襲は、1944年6月にサイパン島が米軍に占領されてからである。成増飛行場の整備が完成したのは1943年12月であり、本格的な本土爆撃には間に合った。しかし、米国はB29爆撃機 をすでに開発していたのである。B29 は全幅43m、全長30mの「超・空の要塞」と呼ばれる、当時としては世界最大、最長距離爆撃機で9000Kmの距離を7トンの爆弾を積んで、高度1万メートルの空気の薄い上空を飛ぶことが出来た。それに引き替え、当時の日本の戦闘機では、高度1万メートルに到達するには1時間近くかかり、希薄な空気しかない高空ではB29よりも速度の点で劣り、機体も不安定で操作も困難を極めた。成増飛行場から飛び立った日本の戦闘機の搭乗員は、命がけで勇敢に戦っただろうが、精神力だけではB29には歯が立たなかった。このため窮余の策として、1944年11月以降は特攻が命じられ、機体を軽くするために、敵の弾丸から搭乗員を守る、防弾鋼板や燃料タンクの防弾用ゴム覆いまで取り外され、まさしく丸裸でB29に体当たり攻撃をしたことになる。

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「超・空の要塞」と言われていたB29 に対して特攻が行われていた

今回は「戦争と平和」というよりは「戦争と戦争」の話ばかりですいません。


真珠湾攻撃からグラントハイツ返還までの歴史

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