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【所長日記】戦争と平和:光が丘から歴史を巡らす3

練馬まちづくりセンター所長小場瀬令二 練馬まちづくりセンター所長 小場瀬令二 2013.8.28

言い訳
 所長ブログ夏休みで少しお休みしておりました。まだまだ暑い日が続くようですが、引き続きよろしくお願いします。

緑地帯に指定される予定がーー

遡り光が丘

 歴史をさかのぼるということで、今回は成増飛行場整備の前の話をしたい。「光が丘団地の前には「グラント・ハイツ」で米軍軍人の居住地、その前は帝都防衛のための「成増飛行場」が整備されていた。ではその前は何であったか。その前には単に農地だったわけだが、実はこの地を含む練馬区内は、色々な計画があり、大逆転あり、晴天の霹靂ありだったことをお話ししたい。

アムステルダム国際都市会議

第1次世界大戦後、都市の周辺に緑地帯を設ける計画論が流行する。特に有名なのが、1924年に開催されたアムステルダム国際都市会議では、ロンドンを典型としてその外周にグリーンベルトを整備する計画論が注目された。その目的は、都市が際限なく拡大することを抑え、都市に空閑地と緑を確保する計画が必要だと謳いあげられた。第1次世界大戦から第2次世界大戦後までの日本の都市計画分野の主要イデオローグで、日本の都市計画の父と目されていた人物である石川栄耀もその会議に参加していた。
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石川栄耀

紀元2600年記念としての東京緑地計画

石川は1933年(昭和8年)に東京の都市計画の立案にかかわり始めた。彼を中心として世界の主要な都市が採用していたグリーンベルト構想を東京圏でも計画しよう考えても不思議はない。そして1939年(昭和14年)に「東京緑地計画」が立案された。現在の23区に相当する東京市の外周に環状緑地帯=グリーンベルトが緑地として指定された。この計画は「紀元2600年」記念事業(1940年=昭和15年)に向けてぶち上げられた計画でもあった。何しろ面積が約962,059haもあるのだ!
翌年の1940年(昭和15年)2月に東京府が策定した環状緑地帯計画には、6つの緑地に加えて、土支田・田柄・高松の地域一体を、大泉大緑地とする計画が盛り込まれた(7つの緑地のうち最大)。しかし、3月30日付の内務省告示(国)では、7つの大緑地の内、大泉大緑地のみが削除された。当時は都市計画のすべてを最終的に国が決定していたのだ。どうも陸軍の横やりで「大泉大緑地」はボツになったらしい(参考文献)。
つまり、この時にすでに陸軍は、光が丘のあたりに軍事施設を整備する意思を持っていたことになる。この手の計画の多くは策定されても「たなざらし」になることが多いのだが、翌年の1940年(昭和15)からは本格的に予算がついて、土地の買収が進められた。

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紀元2600年を奉祝する第11回明治神宮国民体育大会
(1940年10月27日)

同年時あたかも紀元2600年の祝賀ムードの中だった。何しろ、夏季オリンピック東京開催、冬季オリンピック札幌開催、紀元2600年記念日本万国博覧会開催などの企画が目白押しだったのだ。戦後の日本が高度成長の時代に開催した国家イベントの数々を紀元2600年に向けて集中させようとしたようなものである。しかし、結局これらのイベントはいずれも日中戦争長期化に伴い実現しなかった。せめて紀元2600年だけでもお祭気分で戦意高揚を図ろうとしたのだろう。
そのような中で、緑地帯計画は進行し始めた。練馬区の区域でも全体の6割がこの緑地帯に含まれ、「大泉大緑地」という計画はボツになったが、現在の東京にとって貴重な都市公園となっている「砧」、「神代」、「小金井」、「舎人」、「水元」、「篠崎」は東京府が総面積637ha、1か所100haの広さを持つ「緑地」として整備され始めた。時節柄すでに防空が強調されてはいたが(当時の新聞記事参照)。

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緑地計画の関連記事 / 神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ 新聞記事文庫


防空空地および空地帯計画に変身

1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が開始され、翌年の4月には小規模ながら東京も空襲を受けた(先のブログで書いたドゥーリットン空襲)。そのために「東京緑地計画」は「東京防空空地及び空地帯図」に変容することになった(1942年=昭和17年)。この計画でも、江古田空地帯、上石神井および下石神井空地帯で区面積の6割に当たる区域が防空帯に指定された。同時にこの年から成増飛行場の計画・測量が本格的に行われ、1943年(昭和18年)春に軍により飛行場建設の協力要請が農民にあり、2か月で事実上の土地の接収が行われ、12月に飛行場が完成した。軍がなぜ光が丘の地が飛行場に適切だと判断したかはさらに研究してみたい。
 
農地解放の大逆転と特別都市計画

戦争に負けたのだから当然のことながら、1946年(昭和21年)にここで大きな大逆転がおこる。戦中から終戦直後まで内務省または都道府県が買収していた緑地予定地の多くは戦中の食糧事情の悪化に伴い、農地として使われていた。つまり土地は買収したが小作地として利用されていたのだ。そこにGHQによって「農地解放」が天から降ってきたのだ。このため東京市内の緑地予定地も耕作者に戻されることになってしまった。そのため東京の場合、緑地整備予定地746haのうち63%が小作人に払い下げられてしまった。当時の都市計画関係者にとっては、まさしく「晴天の霹靂(へきれき)」だっただろう。
その後、農地解放と同じ年に戦災復興を目的とした特別都市計画法が制定され、その中で緑地地域の考えは継続された。つまり、戦中の都市計画決定の法的規制は解除されず、土地は小作人に戻されてしまったにもかかわらず、緑地予定地の考え方は維持された。建蔽率1割、容積率1割という非常に厳しい規制が実施されたのだ。しかし、1968年(昭和43年)になると、この規制は厳しすぎるということで、緑地地域の規制は外され、その代り「区画整理すべき区域」として指定され、場所によっては一般の住宅地よりもやや厳しい規制が引き続き継続されて今日に至っている。

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東京緑地計画
1940年(昭和15年)

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東京緑地計画
この図は1943年(昭和18年)に作成されたもの

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東京特別都市計画緑地及緑地地域図(昭和22 年)
(出典:公園緑地 9 巻1 号/社団法人 日本公演緑地協会)


ここで手短にまとめると

1974年(S49)グラント・ハイツ返還され、光が丘団地と光が丘都市公園の整備

1945年(S20 )グラント・ハイツ整備(米軍によって成増飛行場が接収され、住宅となる)

1943年(S18)成増飛行場として帝都防空の最前線となる

1942年(S17)東京が初めてドゥーリットン空襲により空爆され成増飛行場計画持ち上が
 る。東京緑地計画は「東京防空空地及び空地帯」として位置づけられる

1941年(S16)太平洋戦争に突入

1940年(S15=紀元2600年)緑地の買収が始まる(光が丘はこの計画には含まれず。練馬
は全体の6割が緑地として計画される)

1939年(S14) 「東京緑地計画」(当初大泉大緑地があったが、陸軍の横やりでボツ)

1924年(T15 )アムステルダム国際都市会議でグリーンベルトが提唱される

最後に私の実感
この3回の「戦争と平和 光が丘」を書いてしみじみと「人間万事塞翁が馬」という諺を実感した次第だ。東京緑地計画の中に当初「大泉大緑地」として入っていた光が丘が、陸軍の横やりでボツになった。もし入っていれば、緑地として買収されていたかもしれない。緑地として買収されなかったのは当時の農家にとっては幸運だったかもしれないが、その代り今度は戦争がはげしくなったら、飛行場にすると言って接収されることになってしまった。他の緑地は戦中買収されたが、戦後農地解放で小作人には農地が戻された。成増飛行場に接収された光が丘は、戦後今度は米軍に接収され、光が丘の元の農家には土地は戻らなかった(農地解放の恩恵は無かった)。
つまり、大泉大緑地に指定された光が丘地区は、戦中には緑地になり損ねたが、成増飛行場、グランドハイツを経て、団地と都市公園となり練馬区に広大で安定的な豊かな空間をもたらすことになった。他方戦中に指定された緑地予定地は、戦後緑地になり損ねて農地に戻り、現在の練馬らしい農地が多く残る景観を形成してきた。しかし、これが少しづつ農地で無くなってきつつあるので、緑を保全したい立場からすると頭が痛い。

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公園内に設置されている「光が丘公園のあらまし」


◆参考文献
都市公園政策の歴史的変遷過程における「機能の社会化」と政策形成(二)申龍徹
法政大学学術機関Repository 所蔵の資料

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